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杉山さとき って、どんな人?
 
杉山さんの経営する、レストラン「ロス・アンジェルス」では、「ロスアンジェルスの軌跡」という、 小冊子を卓上ポップとして使用しています。

地元、八千代市で愛されて35年。
経営者として、ロス・アンジェルスへの取り組みと、思いが綴られています。
小冊子「ロスアンジェルスの軌跡」をご紹介します。



「食」業を通じてお客様の健康に貢献する


これが、レストラン『ロス・アンジェルス』のテーマです。

愛情を込めて育てた美味しい野菜を皆様に届けたい。

親しまれてきた味を守りつつ、自家農園で栽培した旬の野菜をふんだんに使用したメニューの開発など、日々精進しながら、これからもこの丘に建っていたいと思います。
ー ロス・アンジェルス 店主 杉山さとき ー



誕生1

レストラン ロス・アンジェルス誕生のきっかけは33年前、昭和49年頃にさかのぼります。
まだ国道16号線沿いの土地は未開発で、畑や山林が多く残るのどかな景色が広がっていました。
ある日、食品メーカーのレストラン開発を担当していたM氏が、私の家を訪ねてきました。
「勝田台南の丘にレストランを作りたい。ついてはぜひあの土地を貸していただきたい」と父に相談に来たのです。
M氏によると16号を千葉から柏方面に向かう間に休憩が出来るレストランが作りたい。見晴らしが良いあの高台はちょうど中間地点で絶好のロケーションとのことでした。
その頃、洋食レストランがまだ珍しく、農業で生計を立てていた父は計画を聞き戸惑ったことと思います。
こんな場所でレストランを開いてお客さんなど来るだろうか?しかし、熱心に説得するM氏の熱意に流される形で話は進んでいきました。
当初、レストランの店舗を地主である父が建てて、それを食品メーカーが借り受けるという内容でした。
計画は順調に進んだかに見えましたが、折り悪くオイルショックの不景気が深刻さを増し、食品メーカーはあっさりと計画を白紙に戻したのです。
すでに林だった土地は木を伐採し、整地を終えたところでした。



誕生2

レストランの共同経営計画が白紙に戻ってから、父は整地された土地に行っては何かを考えている様子でした。
当時、高校生だった私でも父の気持ちを察することができるほど、この先のことを憂いていました。
ある日、夕食時になっても帰らない父を心配した母に頼まれて迎えに行った時のことです。
整地された土地に佇む父の視線の先には黄昏色に染まる街の灯り。
「きれいだね」つぶやいた私に
「そうだろう。整地してみて始めて景色の良さがわかったよ。ここならいい店ができるかもしれない。やっぱりここをレストランにしようと思うんだ」晴れ晴れとした顔で語る父。43歳のことでした。
それからの父は、意欲的に店づくりに没頭していきました。東京や横浜の人気の店を見てまわり、少しずつイメージを膨らませてきました。
外装はアメリカのロードサイドレストランを参考に、白い壁とオレンジの屋根。
内装はぬくもりのある木の床とランプの照明。当時はまだ珍しかったオープンキッチンにサラダバーのコーナーを取り入れることにしました。
店の骨組みが出来上がってきた頃、菓子メーカーのスタッフからの電話がありました。
「会社と決裂して仕事を探しています。ぜひ、一緒にお店を手伝わせて下さい」
この願ってもない申し出に私たち家族はとても救われました。
レストラン経営のノウハウやメニューの作り方、接客術、食器類に至るまでわからないことばかりでしたから…。



誕生3

菓子メーカーのスタッフは、製菓会社で郊外型レストランの研究をしていました。
彼らは、自分たちの思う様なコンセプトで店をつくりたかったのだと思います。
でも、父には父なりの洋食店のイメージがありました。
素人とはいえ、初めて持つ自分の店に対する想いは大きかったことと思います。
例えば『箸を置きたい』という父の意見は、洋食のマナーにこだわる彼らにとって奇異に思えたことでしょう。現在のロスは、気軽な洋食店として箸のご用意をしていますが、その当時のスタッフは正統派の洋食店を目指していたので大反対でした。
スタッフのユニホームも彼らは白ワイシャツと黒ズボンの高級路線。一方父はTシャツとジーンズでカジュアルな雰囲気を希望。
大学生になって少し意見が言えるようになった私も、彼らと父の間で意見の調整に苦心しました。結局、箸は彼らの意見で却下、ユニホームは父の意見を採用することになりました。
お互いに譲れないコンセプトの違いはありましたが、料理に関しては、父は彼らに全幅の信頼をおいておりました。『料理はロマンと情熱』が口癖のシェフが考えたメニューは、30年前とは思えない洒落たものになりました。開店当初からある『きのこスープ』の誕生も彼らの情熱からうまれた作品です。



きのこスープ1

きのこスープは当時の店長のアイデアでうまれました。
開店に際し、オリジナリティあふれる看板メニューをつくって欲しいという父の希望でもありました。
長髪に口ひげを蓄え自らを『ムッシュ』という洒落人で、料理はもちろん接客にも手腕を発揮していました。『料理はロマンと情熱』がポリシーのムッシュが考案したスープのコンセプトのひとつは『ヘルシー』。健康を考えた食材を使うこと。
キノコはその代表格で、現在のメニューを見ておわかりいただけるように『ロス風』と名前のついたメニューには必ずきのこを使用しています。
ふたつめは『情熱』。きのこスープの形はもちろんきのこを模ったものですが、クリーミーで熱いスープは女性の優しさと愛。それを包むパンの帽子は男性の包容力を表現したんだ。とムッシュは言いました。
料理に物語をつけ楽しんでいたのかもしれませんが、彼の料理に対する情熱を感じたことを覚えています。
ムッシュがスープを包む食材をパイではなくパンにしたのは、スープの中にパンを浸して食べることを考えてのことでした。もっちりしたパンとスープは互いを引き立て合うバランスに仕上がり、父もその出来映えに満足しておりました。
最後にテーブルでのパフォーマンス。お客様の前でパンをカットするパフォーマンスは、当時のマネージャーがアイデアを出しました。彼は東京のホテルのナイトクラブで接客していただけあり、お客様に対するサービス精神に長けていました。彼の接客はスマートで親しみあるものでしたから、ファンも多く店は活気にあふれていました。
ホールの仕事をしていた私にも熱心にワインの知識や接客の仕方を教えてくれ、22歳の私に大きな影響を与えました。



きのこスープ2

きのこスープは当時のメニューに
『中身もさることながら、その形にオリジナリティを発揮"パン・ハット・オン!"ちょうどパンの帽子をかぶった様な夢の包み込み料理』と書かれています。
その頃は洋食と言えばハンバーグやスパゲティを注文するお客様がほとんどで、きのこスープは注文も少なく、私たちは毎夜どうしたら注文してもらえるかを話し合ったものでした。
今のように宣伝を打てなかったので、絵心のあるムッシュは手書きのポスターをつくり、私とマネージャーはオーダーの時には必ずきのこスープを勧めるほど、なりふり構わないセールスをしました。注文が入るとマネージャーは、ナイフとフォークを巧みに操ってパンをカットしてお客様を楽しませていました。
そんなパフォーマンスに他のお客様もあの料理は何だろうと興味を持ってくれるようになりました。
『商品に付加価値をつけるのが接客だよ』 ムッシュが作り出した料理を気持ちのよいサービスでアシストできる人でした。『接客は最後の調味料』そう言ってきのこスープを看板メニューにまで成長させました。



成長1

ロス・アンジェルスは当初24時間営業でスタートしました。今では深夜遅くまで営業している飲食店も多くみられますが、30年前は珍しい存在でした。
開店資金のほとんどを借入金で賄ったため、少しでもお店を開けて売上げを伸ばしていきたかったのだと思います。
朝6時から10時まではモーニングメニュー、11時から15時まではランチ、18時から22時まではディナー、深夜はお酒を楽しむお客様が集まり、私たちは仕込みやテーブルセッティング、清掃に休憩もとれない状況でした。アルバイトの募集をかけても、深夜や早朝までのシフトに従業員はなかなか集まらず、私たちは一日の大半を店で過ごすようになりました。その頃のロスは深夜1時頃が一番賑わう時間でした。
深夜の店はまるでアメリカのジャズバーのようになり、店内は酔っぱらいの喧騒とタバコの煙で満ちていました。睡眠不足と疲労でストレスを感じるようになったある日、私は1人のお客様に出会いました。
その方と交わす他愛無い会話や笑顔に私は癒され、彼女が座るいつもの席に『予約席』の札を置いた思い出があります。
スタッフ不足もありますが、早朝5時から10時までの時間はお客様が全く来てくれないこともあり、24時間営業は1年足らずで午前10時から朝5時までに変更することになりました。





開店から4年が過ぎた頃、父はムッシュとマネージャーにフレンチレストラン『ロダンの手』の開店準備を任せ、私にロスの店長になるように命じたのです。2人の後ろ盾を失い、店長という重責に23歳の私は大きな不安を感じました。
私が店長になった1980年頃、大手の外食チェーンがファミリー向けのレストランを手がけ、多くのお客様を集めるようになっていました。そのことを危惧した父は私に「人気店を見て良いところは真似しなさい」と言いました。
父は私に厳しい人でした。接客の仕方や従業員の管理を指摘してはよく叱られたものでした。反発を感じる時もありましたが、今思えば大学を卒業してすぐ家業を継いだ息子を心配しての親心だったのでしょう。
父への意地もありますが、現実に近くまで進出してきている大手チェーン店との競争に負けられないという危機感もあり、良いところはどんどん取り入れていきました。足しげく通ううちにその店のマネージャー氏と親しくなり、メニュー構成やデータの分析、店舗の合理的な管理方法等たくさんのアドバイスを頂きました。
メニューをよりファミリー向けに変えていくと、徐々にお客様の来店時間帯のピークも深夜からディナータイムに変わっていき、親子連れのお客様も増えていき、いつしか店には行列ができるようになっていったのです。





テーブル数12。満席で46名ではせっかく来ていただいたお客様に長く待っていただくことになり、創業から7年目に現在の形に増築しました。風見鶏のある建物が増築された部分となります。
増築してからお客様を長くお待たせすることは無くなりましたが、益々スタッフ不足は深刻になっていきました。夕方から翌朝までの勤務の私は自宅で休んでいてもスタッフが足らないとしばしば呼び出され、仕事から解放されることはありませんでした。忙しいことに異存はなかったのですが、頼りにしていた従業員に突然辞められたりすると店長としての責任を痛感し、統率力がないのではと悩んだりしました。
そんな折、気晴らしに出かけたドライブで事故に遭ったのです。気付いた時は病院のベッドの上でした。それから半年の入院、2度の手術を受け退院後は自宅でのリハビリに2年を費やしました。
店は私の居ない間に営業時間が24時までになり、現店長や現支配人の頑張りで乗り切り、慢性的なスタッフ不足も改善されていったのです。





スタッフの努力とバブル(昭和60年頃)といわれる好景気の中、店は連日満席となり会社は成長してきました。
私は事故以来現場から離れ、経営管理と営業をしておりました。大きな努力をしなくても店の活気は衰えずいつまでも続くと思っていました。ところが日本中が浮かれた好景気は去り、長い不景気が待っていました。
追い打ちをかけるように近隣には多くのリーズナブルな価格展開をするレストランが建ち、店は空席が目立つようになっていきました。売上はあっという間に半分に減り、1年経っても2年経っても回復することはありませんでした。そんな中、父は病に倒れ63歳でこの世を去ったのです。父は最期まで会社のことを憂い、病床から多くの指示を私に与えました。
『継続は力なり』父の好きな言葉でした。
お店の存続とたて直しをかけ、私は39歳で社長に就任しました。創業から20年後のことでした。





私にとっても従業員にとっても創業者の父は大きな存在でした。経営能力は努力や経験で近づくことはできるとしても、亡き父を慕うスタッフの気持ちを私に向かせるのが一番困難なことと思えました。
私は社員との距離を縮めるため、定期的に会議を開きコミュニケーションに努めました。会社状況をオープンにして今の経営状況を理解してもらい、売上げ回復に彼らの意見を積極的に取り入れました。
私がしたかったのは『お客様の目線になること』。
直接お客様と接していなければわからない改善点が多く出され、メニューやサービスに反映されていきました。中でも支配人はコストダウンに貢献し価格の据え置きを実現しました。ホール従業員の教育も熱心に指導し、今あるサービスは彼が確立したものです。
店長はお客様のニーズに合った新メニューの開発に取り組んでくれました。彼が作ったランチメニューの充実によってランチタイムにも多くのお客様が来店してくれるようになりました。料理にこだわりがあり独創的なメニューを数多く生み出したのも彼の力であると思われます。
創業から22年。ムッシュやマネージャーが植えた苗木は大きく成長していこうとしていました。





ロスのテーマは『食』業を通じてお客様の健康良化に貢献することです。
社長になって数年がたったある日、偶然にみたテレビに私は目を奪われました。それは、野菜の残留農薬の危険性を伝えるものでした。
今仕入れている食材は安全だろうか…そんな不安を感じるようになり、自分の手で作れないものかと考えるようになりました。野菜づくりをしたことがあるとはいえ60代の母と素人の私では心もとなく、農業経験のあるOさんに協力を依頼して3人での野菜づくりが始まりました。
1年目は失敗の連続でした。自宅敷地内の栗林を伐採して畑らしくするまでに数ヶ月を費やしました。梅雨時や秋の長雨の時は病気の発生。温室の設定温度を誤って苗木のまま枯れてしまったこともありました。
一番の苦労は害虫の駆除で、無農薬だとこんなにも害虫被害があるものなのだと改めて無農薬栽培の難しさを実感したものです。暑さ寒さの中の作業、何度も繰り返す失敗に投げ出してしまいたくなる日もありました。
自家製野菜がサラダとして商品化できたのは、毎日朝早くから働いてくれた2人の協力のお陰です。楽天家の母はどんな時も笑顔でいてくれ、畑には笑い声が絶えず私は明るい気持ちになったものです。Oさんは誰よりも長い時間を農園で過ごし、研究熱心な努力家でした。Oさんがうまく育たない苗を自宅に持ち帰って育てていることを私はずっと後になって知ることになり、彼女のひたむきな努力に感服したものです。





野菜を作り始めて3年が経つ頃には、農家レストランとして雑誌に取り上げられたり、お客様アンケートの中に『野菜がおいしい』という声が聞かれるようになりました。
『継続は力なり』と言っていた父の言葉が思い出され、私は続けることの大切さと達成することの喜びを感じました。
現在2棟の温室で無農薬のハーブ20種、有機肥料を施した農園では低農薬で季節野菜、四街道にある600坪の農地に有機無農薬のたまねぎやジャガイモなどを栽培しております。
農業を始めて8年。毎朝その日の食材を摘んで店に配達することが私のライフワークとなりました。天候に左右される野菜作りですが、今では手をかければキチンと答えてくれる農業の面白さを味わうまでになりました。
野菜の良し悪しはその栽培行程や鮮度が大切な要素ですが、洋野菜、和野菜に関わらず持ち味を引き出し、ロスの味に仕上げる店長の調理技術も重要だということを付け加えておきます。





2007年4月19日は我々にとって忘れることのできない事故が起こった日です。奇しくも30周年を従業員と共にお祝いした次の日、火事を起こしてしまったのです。
先代が築いた店が目の前で燃える光景は悲しいものでしたが、お客様にも従業員にも怪我人が無く、建物も一部の損傷だけで済んだことは不幸中の幸いでした。休業中、ご心配くださったお客様、連絡が行き届かず足を運んでくださったお客様に大変ご迷惑をおかけしましたこと、改めてお詫び申し上げます。
一日もはやいオープンに無理をしてくださった業者の皆様、片付けや修理に頑張ってくれたスタッフに感謝しております。
火事を起こしたことは大変残念なことですが、多くの人に支えられていることを実感することができました。
31年前、希望を胸に父が建てたこのレストランは、多くのスタッフによって『ロスらしさ』を構築していき、その味とサービスを受継いでまいりました。
これまで続けてこられたのは、なんといっても多くのお客様の笑顔に出会えたからだと思います。本当にありがとうございます。
これからもスタッフ一同『ロスらしさ』を失わず日々精進していく所存でございますので何卒宜しくお願い致します。





『いらっしゃいませ』いつ来ても気持ちよい挨拶で迎えてくれる古いレストランがあります。勝田台のレストラン ロス・アンジェルス。
私が父と母に連れられてその店に初めて行ったのは小学校2年の運動会のあった日だったと思います。『キッズプレート』は、頑張って走った私のご褒美でした。小さなハンバーグや海老フライ、旗がついたケチャップライス、きのこの形のスープが食べたいとねだったものでした。
卒業式、母の日、誕生日。たくさんの記念日をロスで過ごし、素敵な思い出がここにあります。
大人になった今『キッズプレート』は娘のお気に入りになりました。
野菜が苦手なのに残さず食べて自慢気な顔。おもちゃをもらって帰る車の中で「おいしかった。また連れてって」という台詞を母として聞くことになりました。娘はあの日の私と同じです。
ロスの料理はただ単においしいだけではありません。私にとって一口であの運動会の日に戻ることができる『思い出の味』なのです。きっとその味はどこのレストランでも作れない味なのだと思います。
ロスの前を通るたび変わらずにいてくれることを嬉しく思い、待っていてくれているような安心感を覚えます。
これからもたくさんの思い出を作ってくれる店であって欲しいと願ってやみません。
ー お客様アンケートより ー